たったひとつのできること

どこにでもあるようなオーソドックスなバーのカウンター席に座りながら、
私は独りグラスを傾けている。
「待たせたな」
そういって左隣に腰掛けるは、昔からの親友。
「どうした?浮かない顔をして。妹さんは?」
「夕奈は気分がすぐれないから、今日は来ない」
「ちぇ、残念」
おどけて肩を竦めてみせる。たいして残念そうにみえないのに、オーバーリアクション気味なその仕草は、気持ちの沈んだ私への励ましだろう。親友はいつもの一杯目をバーテンダーに注文して、私に視線を合わすことなく、ひとこと呟いた。
「何があったんだ?」
「・・・何も。ただ、人は人を、他人の心を完璧に理解することは永遠にできないのだろうなと思っただけさ。
心と心は漸近するけれど、決して交わることはない。」
「他人の心が完璧に分かってしまうなら、恋愛も、駆け引きも、何もいらないつまらない世界のできあがりだ。100%じゃないところがいいんだよ。だから人は一喜一憂できるんだ」
「ああ、そうだな。人が喜んでいるのをみると、こちらまで嬉しくなってその喜びを分かち合うことはできる。たまに、憎悪を掻き立てられることもあるけどな。どちらにしろ、喜んでる本人に対して心を通わせることはできるかもしれない。だが・・・」
「だが、人が哀しんでいるのをみても、ただその哀しみに寄り添うことしかできない」
手にしたグラスの氷が鳴り、琥珀色の液体が静かに揺れる。
揺れた液体を一口含み、私はさらに続ける。
「哀しみに寄り添うことしかできない自分が、何と無力なことか・・・
哀しんでいる人の心が完全に分かったなら、もっとこう、違うことができるのではないかと思わずにはいられない」
「手に入れることができないものは、それはそれは万能なものにみえるだけだ。実際手に入ったからといって、何が変わるもんじゃない」
「そうかもしれないなあ」
自嘲めいた笑みを浮かべ、軽く息を吐く。
私の右隣のカウンターに置かれているグラスの氷が大きな音を立てる。音につられて右に視線を向ける。視線の先にあるグラスは親友と話し始める前から存在し、動かず、側面は冷たい汗をかいていた。
「なあ、そのグラスは誰の・・・」
視線につられて、目を向けた先にあるグラスに気付き、親友は私に声をかける。
「義弟のグラスだ」
短く答える。
「義弟って、夕奈ちゃん、まだ・・・」
「ああ、まだ結婚していない。実際私も最近知ったんだ。だから、顔も知らない。
それでも、
義弟だ」
義弟のグラスに満たされている液体をぼやけた焦点でみつめる。
「義弟さんの、その酒はウイスキー?」
「いや、『マンハッタン・オンザロックス』。
義弟が好きだったカクテルだそうだ」
それを聞いた親友はバーテンダーに同じものを注文し、ずっと置かれていた義弟のグラスに軽く触れる。
後はただ何も言わず私の心の声に耳を傾けてくれていた。